昭和40年10月06日 朝の御理解



 昨夜壮年部会で御座いました。ま色々信心の共励が御座いましたんですけれど、秋永先生がこう言う様な事を言っております。「いつもこの壮年部会の顔ぶれっていうのはもう大体これだけだ」言う訳です。ま実際に熱心な壮年部の方達がいないかというと、今度の御造営の事について、建築委員の方達が殆ど壮年部会の、壮年部の方たちで出来ておる。もう何十日間三人ないし、又四名の方たちが毎日、朝のほんとに9時から5時頃までの時間というものは、皆がたまがる位に熱心に御用頂いておられる。
 いうならば恐らく是は段々一人減り、二人減りする様になって、出る人達が少なくなるんじゃないかという、愚の念をもっておったけれどもどうしてどうして、もうこの頃ではもうその、自分の出番を楽しんでおられるっと言った様な雰囲気があると。これだけ熱心な方たちがおられるのにです、どうして壮年部会がこんなに振るわないのかと、他の会に比較してそれを思う。不思議でたまらなん。という話だったんですね。
 結局壮年部会、壮年部会そのものに魅力がないのだと。といったようなその話が、私ゃ信心さして頂く者の、いつもこういう姿勢が必要だと思うですね。お商売をさして頂いておると、どうぞ商売が繁盛致します様にという願う、願っておるにも拘らず、商売が繁盛しないならです。どこよりか高いのじゃなかろうかと、サービスが悪いのじゃなかろうかと、ねえ。例えば確かに家では値段も他所よりも安くしておる。ねえ。
 勉強さして頂いておるのにもかかわらず、例えば商いが少ないというのは、もう値段の高い安いじゃない、もうあげな安い所から買いたくないと言った様なものが、自分自身の内容にありはせんだろうかと言う様にです。いつもそう言う様な自分という者を、深く見極めるという気持ちがね、信心には私は必要だとこう思う。で私あ話した事でしたけども、他の会が全部二階でやるんですね。みんな。
 ところがその、壮年部だけはここでやるんです。で私もここから聞かせて頂くし、また10時過ぎたら、私がそこへ一緒に出てからまあ話を聞いたり、さしてもらったりするんですね。これはどうも私が、こりゃ出る会じゃないだろうかと言ったことだったんです。 先生がおんなはるけん、いっちょんその魅力がない。もう大体もうそう先生がおんなはるから、思う存分話しが出来ない。
 来月からひとつ二階でやってごらんっと言ってまあ言ったことですけども、ならこれは私の、そういう風なああこれは、私が出しゃ場っておるからじゅあなかろうかと私が感じたようにですね。お互い銘々がです。そう言う様なんなら熱心な方達がいないならともかくです。ね 月に何回かもしれない、例えばそうした朝から晩までの御用奉仕なんかにゃ、楽しみに出て来なさるような熱心な、人達が沢山あるのなのにも関わらず、壮年部のたった月に一回の会合がです。
 こんなに振るわないというのは、どこにその原因があるかと、銘々が一つ考えてみなければいけない。私はいつも思うんですけれども、ほんとにこの御結界奉仕をさして頂いておっても思うんです。内容はもちろんの事、けど姿形もこういうな形でいいだろうかといつも思う事です。私は何時もこんな表情しとっていいんだろうかと、何時も鏡をそれこそ密かに出して見るんです。
 自分の御祈念をしておる姿っていうものがです。これでいいだろうかと、大体人間にいろいろ癖があるんです。あたしの長男なんかは、どうも肩をこんな風にする癖があるんですね。いつか注意しよう注意しようと思ってるけれど、注意しあわせん。後ろから見て非常に格好が悪いです。ねえ だから勿論格好だけのことじゃないですけれども、これで良いとかね、これで済んだとは思いませんという。
 教祖の神様の御信心のこの進め方というか、姿勢というか、そういうものが絶えず私は動いてないといけないと思う。ひとつ皆さんもうすぐ出来ることですから、自分の御祈念しとる姿を一つこう想像してみたり、はあこんな格好でいいだろうか、ねえ。もっとよりよい御祈念の姿勢というか、また人が見てもなるほどその御祈、いわゆる尊い姿に御祈念の姿ですから、尊く見えなければ嘘です。ね。
 返ってその滑稽な格好しておったり、人に不愉快な思いをさせるような態度やら、格好やらがありはしないだろうか。これなんかは自分がその気になりゃ、いつでも改まれる事が出来る事なんです。ね。内容においても同じこと。これは自分の現在思うておるということがです。それに終始してはならないと、も自分の思っておることは間違いないと、こう断定してはならないと。
 これで良いであろうか、これで良いだろうかという気持ちが、私は必要だと思う。私がいわば25年前にもう一生懸命に思うておった事、信心させてもらいおかげを頂き、ねえ親に喜んでもらいたいと、親に安心のお安心してもらいたいという、この一念に燃えておったと、あたくし信心の中心は。その為ならばどげな修行でもさせて頂こうという、気持ちがあったんです。
 修行そのものは分からなくても、その思いはしかしもうその翌年には変わっておった。これは内容が段々変わってきた。いわゆる御広前を中心にという考え方になってきた。それから、やっぱり年々思い方が変わっておるようにです。それで現在私が思っておることがです。もうこれで立派である、これを推し進めて行く以外にはないという事は一つも思っていない。みなさんどうでしょうか。
 ここに御信縁を頂かれて、御信心を頂かれるようになって、その思いというものがです。もう自分の商売の事だけお願いすりゃよかから、自分のこのことだけお願いすればよいから、ひゃぁも誰にも負けない大きな御用でもさしてもろうて、大きな御商売なら御商売の上に、お繰り合わせを頂いて、もう御用さして頂いき、もうそりゃ一念で椛目にお参りをしておる。なるほど尊い。
 けれども、それだけではいけない。去年もこの思いであり、今年もそうであるというなら貴方の信心は進展していないという事になる。昨日、秋永先生が言われるように不思議な事があるんです。椛目にもですね、これだけ熱心な壮年部の方たちがおられるということを、今度の御造営によって再認識した訳なんです、みんなが。これも久保山先生達がそれを言っておられるです。
 夕べ言っておられましたが、もう私はこれだけは段々裾細りになるじゃろと思いよった所が、どうしてそんな段じゃない皆が、それに熱意を示していかれると。たった月に一回の壮年部会に、そん出て来られないっていうのは、結局この部会が魅力を持たないからだろうとこう、どう言う所がんなら魅力の欠如かとと言う様にです。あたくし詮索してそれがその代わり、銘々がそう言う様なあたしは考え方にならせて頂くこと。 
 昨夜久富建設の正樹さんが出て来とりましたが、こう言う事をいっております。「椛目の今度の御造営はです。井上け、井上組ですか、井上組を通して久富建設の為にですね、今度の御造営はあっておるように思う」とこういう訳なんです。どうでしょうか皆さんの例えばなら、ここに堤〆吉商店という、そのお商売をなさってある方があると、今度の御造営は堤〆吉商店の為に今度の御造営はあっておるようなものを感じるという、それがもう実感としてです、頂けるようになったら、素晴らしかろうと思うですね。
 それには、こういう事を言うんです。ね。日ごろいろんなその事業を幾つもしておりますから、椛目のこの基礎を、丁度技術がやっているわけなんです。がもしなかったらです。これだけの陣容というものを整えられないと、人間をこれだけ集められないという。ところがです、椛目のこれが始まって以来というものはですね。人間をそれだけ集めたという、ところがですね。
 それをそのまま、どこへ持って行っても、良いような仕事が次々にあっておるということ。今度なんかはあのう九重ですね、あの筋湯のある所、あの道路の請負をやってるです。もう今度椛目のこのう、あれが済んだらすぐそのまま、みんな連れもって行くちゅ言う訳でなんです。もう絶対ですねああいうように火急な、例えば請負うような事が起こった時です。まず第一、人間が揃わなかったら出来るこっじゃないです。
 それだけのことじゃありません。「この仕事も、この仕事も、それを感じます」とこう言う。「なるほど、椛目の御造営は、まるきり久富建設の為に、井上組を通して私のほうに、御用さして頂きよると言うことを感じます。」とこう言う。そういうあたくしは、そのう「そうじゃんなぁ」て、もう銘々例えばね、業者がどの業者でもがです。椛目のそれを受け合わせて頂いたら、このことがこういうそのそのおかげで、こういうようなおかげになっておるという事になってこなければいけないのにです。
 それと反対の事はになってくれない場合は、いよいよその、その業者自体が考えなきゃいけないと言ったようなことを。そういう、おかげを頂かなければならんのにもかかわらず、不思議にかえってお商売が不振になるとか、いっちょ考えなきゃいけないでしょうが。これで良いとは思わない。これで済んだとは思わないと、ね。絶えず自分の心が本当なほうへ、本当なほうへと間違いのないほうに進んでいくことのためのです、願いというものがなさらなきゃいけない。
 何年参っておるから、信心が高度なものだという事じゃない。信心の内容が進んではじめて高度なものになっていくのである。のですから、例えば、自分が信心始めの当初のころからと、現在の自分の内容の考え方といったようなものがです。おんなじであるとするなら、これは可笑しい。だから、可笑しいと感じたらすぐです、それを誰々のせい、人のせいにせずです。
 自分自身の中にそういう、ま 昨日の秋永先生の言葉借って言うならばです。どういう訳にこの会自体が魅力がないかと。どういう訳にみんなが集まって来ないかと。それには、いろんな、まあ表面に現れとる原因もある。あの位な会合なら別によか話もなかと、また人間関係にも、あげんとどんが幹部だ役人だと言うとる言うとるものは俺はいやだと、と言ったような者もあるだろう。
 けれども、ここに不思議な事を縦に繋がる、私とほかの壮年部の方達との繋がりと言う事においてですたい。例えば今度の御造営なら御造営ということは、神様、私、皆さんというふうな繋がりが、縦につながておるという事には、皆が非常によく意欲を燃やされるのにもかかわらず、壮年部という、横に繋がっていくと言う事においては、皆がそこにそうした意欲を見せられないという事。
 例え月に一回のしかも何時間かの、それに楽しみにしとるような、その会自体に魅力がないという事。それはその魅力がないのは、私自身の為ではなかろうかと、これは銘々が思おうてなけらばいけない。「自分のごたるっとが出よるけんでじゃろんなら、文句のつくから行くめ」こういうような事はいけない。これはもう定価ですから。ね。そういうな原因が、自分自身にあるのじゃないかと。
 自分のこういうとろこが、ということになってくる。大体言うたら、もう一人の信心の魅力ででも人は集まるです。あの人の話を聞くこと楽しみにということになる。そういう、例えばお互いが銘々にならなきゃきけない。安うも売っておる。サービスもどこよりも負けんようにしておるにもかかわらず、商いがないのはどこなのか。本当に詮索せずしておいてです。どうぞどうぞ繁盛のおかげを頂きます様にだけではです。ちょっとやっぱり、可笑しいんじゃないでしょうか。どうしてこの会が発展しないだろうか。
 なら例えば、そうお広前の事でも同じ事、最近大変お参りが少ないが、どういう訳じゃろうか。あのせいじゃろこのせいじゃろ、時候のせいにしたり、ね。またはその天気のせいにしたり、ね。農繁期とか農閑期とかと言った様な、そう言う事をせいにしたり、だから少ないだろうと言った様なのは、それは安易な考え方である。ぎりぎり根本自分自身の信心の魅力の欠如だと。と私は頂くのが一番間違いない事だと。そんならどこにその欠如しとるものがあるかと、足りないものがあるかと。
 なるほど去年、も今年も自分の思い方、内容においてひとっつも変わってないもん。そう自分の思おておることしか、ほんとの事のように思おておる。これでよい、これですんだとは思わんという、切実なその思いというか、これで済んだとは思わんと。それではどうするのかという所に、この積極的な、意欲がない事が原因しておると、私は思うのです。これは壮年部会だけのことではありません。もう一事が万事にそういうように考えられると思うのです。
 そこに信心のいよいよ形の上に於いても、内容の上に於いても、進んでいくことになり、そういう生き生きした願いというか、いつも求めてやまんというか、そういうようなものが、私は神様の目をひく、又はみんなの魅力に感じるとものになって来るとこう思うのです。よい話をしとんなさるけども、何時も、おんなじ調子の話、信心が向上しないからいつもおんなじだと、話は下手だけども、何かいつも何か、こう斬新なものをその人の中から感じれるといったようなです、おかげを頂きたいですね。
   どうぞ。